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第03回 電通最高顧問 成田豊



中国・アジア市場の夢

広告代理店の電通は、単体では世界最大、グループでは世界第5位の世界に冠たる巨大企業である。成田最高顧問は、1953年の入社以来、日本の広告業の近代化に尽力し、電通が巨大企業へ成長する過程を常にリードしてきた。広告の近代化、それはまさしく戦後日本の経済成長の原動力だった。電通グループの支柱として、今も大きなビジョンを描き続ける成田最高顧問に、中国との関り・日中交流のあり方・オリンピックの意義などについて、お話をうかがった。

日中交流イベントの成功

――昨年は日中国交正常化35周年ということで様々な日中交流イベント(注1)が開かれましたが、どのイベントが特に印象に残りましたか?

まず、お祭りのイベントを北京隋一の繁華街、王府井で行なったというのは驚きでした。イベントを開くに当たって、初めて開いた会議には、温家宝首相、国務院文化部の孫家正部長が出席しており、日本側からは経団連の御手洗会長が出席していたのですが、その席では、孫家正さんから、お祭りの開催は郊外にある公園でという話が出ていました。5年に一度の党大会が間近に迫っていたということもありましたし、セキュリティの問題もあったと思います。私も御手洗会長と、まあそういう形でいいのではないかと話していたのですが、実行委員会の事務局から、ぜひ王府井でやりたいという声がでており、事務局の努力で実現にこぎつけました。


――イベントをご覧になった感想は?

中国のお祭り参加者たちの演技力、出し物も素晴らしいものでした。そして、観客が一番驚いていたのは、日本から来た秋田の「竿燈」でした。

長さ12mの竿に、46個の提灯をつけて、それを肩や額に乗せるという妙技を見せんです。わざと危ないように演出してみせたりするので、竿燈の提灯が揺れて、みんながわーっとよけたりしてね。それはそれはすごく盛り上がって、大拍手が起きました。中国の人たちも非常に喜んでいました。

そして、お祭りというのは、体感できるものであるところがいいと思いましたね。見ている人たちが参加して、自分も踊ったりできる。みんなが一体となる雰囲気をかもし出しますから。そういう点で非常にいいことだと思うんです。中国では、あまりそういうお祭りをやられていないようで、最初は少し難色もあったようなのですが、最終的にはやろうということになって。本当に大成功だったと思います。

総理が残した印象

――日中ジャーナリスト交流会議での、日中のジャーナリストには、どんな印象を持たれましたか。

27日の会議前に、メンバーは福田総理を表敬訪問しました。福田総理は、国会中で大変な忙しさだったのですが、15分も時間を割いて、中国のジャーナリストに会った訳です。そして、中国側代表の劉北憲氏(中国新聞社副社長・中国新聞社長・『月刊中国NEWS』編集委員会執行委員)が、日中関係は、温家宝首相の来日による「氷を溶かす旅」でまさに春に日に日にならんとしているとおっしゃったのです。

それに答えて、総理は、「もう春はきてますよ」と述べられた。そこから参加者がみんな、私たちはこれから、春の関係を築いていきましょうという話になって、また、「春が来て、あんまり熱くなってもいけないし、春爛漫くらいがいい」などという発言も出ましてね。くすくすと笑いが出て、実に和やかなムードになりましたよ。

そして、この会見は、中国側のジャーナリストたちに非常にいい印象を残したようでした。「日本の首相がこういう人だということを我々はもっと知らせていかなくてはいけない」という意見も出て、非常に好感を持ったようでした。

中国の広告教育への支援

――成田最高顧問は、中国の広告教育に尽力なさっていますね。

私どもは、1996年から中国教育部と協力して、「日中プロジェクト」というものを行なっています。中国教育部は、日本の文部科学省にあたる国家機関で、こうした共同プロジェクトを始めたのは、うちが初めてだと思いますよ。

――中国で広告教育を行なうようになったきっかけを教えてください。

私の友人に、中国軽工総会副会長の副会長だった傅立民さんという方がいます。1986年に彼が商業部の科学技術室長だった当時、私は、電通の局長をしていました。そして、北京と上海で日中流通システム協会という食品流通に関する会議があり、その中国側の担当者が傅さんだったのです。会議を開くにあたっては、お金がかかりますから、お金を出してくれと交渉する係が傅さんだったわけです。英語を話す息子さんと一緒に、私どもと筆談を交えて交渉を行なって、両者ともハッピーに上手くまとまりました。

そこから、お付き合いが始まり、94年にとあるピアノコンクールが中国であり、私も訪問したのですが、その時傅さんは、中国軽工総会副会長の副会長になっておられました。中国軽工総会というのは、家電とか薬品、化粧品、食品などを所管している機関で、広告も担当するのです。その時傅さんは、中国にはオーバーな広告、誇大広告が多いことに頭を悩めていました。そこで、何かこの状況を変えるために力を貸してもらえないかという話が出て、私どもも協力することにしたのです。

そして、2001年に電通は創業100を迎えたのですが、その年に、中国の大学に広告の講座を寄贈しようということになり、プロジェクトが発足しました。

中国への思い

――中国へ進出された際の思いはどんなものでしたか?


中国には特別思い入れがあります。私は儒教の仁・礼・信といったものを大切にしておりますし、また私はそういう世代の人間です。文字にしても中国から来たものです。笑い話で、漢字の使用料・コピーライト代を払えと言った人がいました。それだけ日本と中国の関わりは深いのです。

そして、私は中国に夢を持っています。たった1割でも日本ほどの人口になる中国です。10年もしたら、日本のGDPを追い抜くと思いますよ。日中の貿易量も多いですが、米中の貿易量は日中を凌いでいます。例えば、アメリカ・日本・中国で野球大会をやるというようなことが実現したら、戦争などする雰囲気にはならないでしょう。平和な時代の幕開けとなります。これからは中国を含めたアジアをしっかり見ていきたいと思いますね。

――中国の政治家との交流では、何かエピソードがありますか?

1998年に江沢民氏が来日した際にお会いしました。その際、江沢民氏が日本は今でも軍国主義だというようなお話をされたのです。それで私は直接、「そんなことはありません」と言いました。もしそんなことがあれば、我々経済人が絶対に許しませんよとお伝えしました。直接申し上げたのは、恐らく日本人で初めてのことだったのではないでしょうか。

電通成長の道のり

――電通は単体で世界最大の広告代理店に成長しました。そのきっかけについて教えてください。

戦時中は、新聞はいくつもありましたが、放送はNHKラジオしか存在しませんでした。それでは、言論統制が容易にできてしまう。それはおかしいのではないかという話になり、商業放送というものを立ち上げようという動きが始まる訳ですが、日本の官僚は商業放送とは何かということが理解できない。第4代社長の吉田さんは、アメリカの広告などを勉強して、商業放送に尽力されたのです。そして、昭和26年に民間放送のラジオが出来、28年に民間放送のテレビが始まり、今の発展につながります。

スポーツビジネスの黎明

その後、成田氏は電通が手広く手がけるスポーツビジネスについて、ロサンゼルス・オリンピック、そして今回の北京オリンピックと、話が広がりました。

インタビュアー :『月刊中国NEWS』 編集長 張一帆

『月刊中国NEWS』 08年5月号掲載

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